今回紹介するのは、「ノイエ・ヴァッヘ」という小さな古典建築です。それは、博物館島からブランデンブルク門を結ぶウンター・デン・リンデンというベルリンの目抜き通り沿いに建てられています。この大通り沿いは、ベルリンの中心地ということもあり、大きな建物が建ち並んでいますが、その中にぽつんと1つだけ建っている小さな建物がこのノイエ・ヴァッヘになります。この建築を手掛けたのはドイツを代表する建築家の一人であるカール・フリードリヒ・シンケルですが、なぜこのような場所にこのような建築が建設されたのでしょうか。
この建物は、ナポレオン戦争勝利を記念してフリードリヒ・ヴィルヘルム3世のために1818年にシンケルによって建てられたのが最初でした。その当時の建物は、王宮を護る近衛兵の詰所という目的で建設されたため、今でも正面ファサードのペティメントの彫像に勝利の女神ヴィクトリアが確認できます。シンケルはここで、建物の四隅に塔を配置し、それを壁で囲むことで、中心に中庭を持つ堅牢な建築に設計しています。また、前回紹介したアルテス・ムゼウムはシンケルの代表作として有名ですが、ベルリンの都市景観として根付かせたと言われる列柱空間が、アルテス・ムゼウムと同様に、その約10年前に設計されたノイエ・ヴァッヘですでに見られます。
19世紀初め、まだノイエ・ヴァッヘが建設される前には、ここには濠が遺構として残されていました。この濠によって、周辺の街区はまとまりを失っていたため、ノイエ・ヴァッヘの建設は、周辺街区を整備するという意味合いもありました。これによって、王宮やアルテス・ムゼウムのある今の博物館島からブランデンブルク門へと続くウンター・デン・リンデンの街並みが都市景観として整えられていったのでした。
1918年帝政ドイツが崩壊し、共和国となったため、ノイエ・ヴァッヘも衛兵詰所の役割を終えました。それは、1931年に建築家ハインリッヒ・テッセノウが改築を手掛け、第一次世界大戦戦没者追悼施設へと役割を変えました。慰霊の施設へとするため、ここで中庭が屋根で覆われ、その屋根には円形の開口が開けられ、神聖で神秘的な内部空間を持つようになりました。第二次世界大戦を経て、東ドイツに属していた冷戦時代には、「ファシズムと軍国主義の犠牲者のための追悼所」として利用され、建物内に1人の匿名の強制収容所犠牲者と1人の匿名のドイツ兵が祀られていました。
壁崩壊後は、東ドイツ時代に置かれていたものは撤去され、現在も見ることができる彫刻家ケーテ・コルヴィッツによる「死んだ息子を抱く母親(ピエタ)」の像がノイエ・ヴァッヘ内に置かれています。現在ノイエ・ヴァッヘは、「戦争と暴力支配の犠牲者のための国立中央追悼施設」として利用され、1993年以来、毎年11月第3日曜日の「国民哀悼の日」に大統領が献花に訪れるなどのセレモニーがここで行われています。シンケルは、当初近衛兵の詰所としてノイエ・ヴァッヘを設計しましたが、200年を経た今では、国を代表する追悼の場として利用されています。これも、シンケルの常に古典建築を究めるという設計態度にあり、この建築もまた、他の古典建築と同様に、これから先も何百年と生き続けるのでしょう。
ベルリンの史跡についてはこちらでも紹介しています。
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