2008年、戦後ソ連によるベルリン封鎖に対して西側が行ったいわゆる「ベルリン大空輸」の舞台であったテンペルホーフ空港が空港の役割に別れを告げました。2本の滑走路がある広大な敷地は、現在では散歩やランニング、バーベキューをする市民の憩いの場となっています。テンペルホーフ空港と言えば、この驚くほど広い広場に目をひかれますが、その横に佇む空港建物も非常に興味深い建造物であります。今回は、この空港建物に焦点をあてて、テンペルホーフ空港について詳しく見ていきましょう。
ここに初めて空港ができたのは1923年のことでした。当時の利用客はたったの150人でしたが、30年代になると6万人を上回る人々が利用するようになり、利用客の数字ではロンドンやパリを越えるヨーロッパ最大の空港だったようです。現在の空港建物が建てられたのは1936年から1941年のことで、戦争中は軍の飛行場として主に使われていました。
良くも悪くもこの建物が注目を集める理由の1つは、ヒトラーの世界首都ゲルマニア計画の一環で建設され、かつ現在でも残っている数少ない建造物であるからです。そのため、建物のあちこちにナチズムを反映するデザインが見受けられます。
例えば、全長1.2kmにもなるターミナルビルの巨大なスケールや建物中央に配置された100mのホールを軸とした線対称の建物構成、そして、70mごとにきれいに建ち並ぶ階段室のタワーが空港建物をさらにモニュメンタルな建築物の印象をつくりだしています。いくつもあるこの階段室を通して、空港建物の屋上から軍の航空ショーを10万人とも言われる大観衆が見物できるようにも考えられていたそうで、デザインだけでなく、機能的にもナチスの意向が伺える建物です。
イギリス出身のスター建築家であるノーマン・フォスターが「空港の母」とテンペルホーフ空港を言い表したことがあります。そこには、この空港が近代的な空港建築の基礎を生み出したという意味が含まれています。具体的にそれは、出発・到着・貨物という空港機能に従ってターミナルビルを計画していき、そこにレストラン・ホテル・会議場といった二次的な機能を付け加えた複合施設として空港建物をつくるというものでした。こうしたテンペルホーフ空港のターミナルビルの構成が、後の数々の近代的な空港設計のモデルとなっていったのでした。
ナチスドイツが戦争に敗れた後、冒頭にも述べたように、1948年にソ連が行ったベルリン封鎖に対抗して西側が実施した「ベルリン大空輸」では、大部分がテンペルホーフ空港を介して輸送機による物資の輸送が行われました。このように、冷戦の最前線の舞台となったことでもこの空港は歴史に名を刻みました。
その後、新しい空港の開港するなどして、テンペルホーフ空港は閉鎖と利用再開を何度か経験しましたが、ついに2008年をもって完全に空港としての役目に終止符を打ちました。空港建物は、現在ではオフィスや商業スペース、倉庫など幅広い目的で活用されながら、その有り余る空間を活かして、大きな催し物に使ったり、難民のための一時的な宿泊や登録手続きなどに利用されたこともあります。空港ビルのデザインや滑走路など、かつての空港として見ることはもちろんですが、少しずつ改築・改装を行いながら、巨大な建物が再び有効活用されていく様子に注目してみてもいいかもしれません。
ベルリンの建築についてはこちらの記事でも紹介しています。
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