20世紀のデザイン界はもちろんのこと、現代にも影響を与え続けている「バウハウス」。それは、ワルター・グロピウス、ハンネス・マイアー、ミース・ファン・デル・ローエといった名だたる建築家たちが次々と校長を務めた芸術学校でした。しかし、バウハウスは1919年から1933年というわずか14年間だけ存在し、また場所もワイマールからデッサウ、そしてベルリンと二転三転するという非常に厳しい環境の中にありました。その中でも当時の校舎などは、1996年に「ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産群」というかたちで世界遺産に登録されました。今回はそんなバウハウスの歴史や教育システムについて、「ワイマール編」と「デッサウ・ベルリン編」の2回に分けて見ていきましょう。
バウハウスが設立する前の19世紀の芸術界は、芸術のための芸術といったように芸術の分野でそれぞれが専門化しており、同時に産業革命以降、手工業生産から機械生産へと移行する中で日常生活には粗悪品が溢れる状態となっていました。そんな中、ウィリアム・モリスによる「アーツ・アンド・クラフツ運動」を代表して手工芸復興運動が興り、分化していた芸術を総合芸術としてまとめようという動きが欧州各地で始まっていました。ドイツでは20世紀初頭にベルギー人のアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデがワイマールにおいてバウハウスの前身となる美術工芸学校を設立し、1919年にそれが美術アカデミーと統合するかたちでバウハウスが創立されることになり、その初代校長として建築家であるワルター・グロピウスが託されました。
グロピウスの新しい芸術学校での教育理念は、すでにバウハウス(Bauhaus)という名前に込められています。これは、中世の職人組合であるバウヒュッテ(Bauhütte)から来ており、バウ(Bau)はドイツ語で建設などの意味で、ヒュッテ(Hütte)は小屋などを意味します。当時はこうしたバウヒュッテの下で大工をはじめ、石工、彫刻家、ガラス職人、家具職人そして画家といったあらゆる芸術分野が1つになって、教会建築といった1つの芸術作品を創り上げていました。初代校長のグロピウスはその概念をもとに、様々な芸術分野が一体となって統一芸術を創り上げること、そして芸術活動における基本は手を使う手工作あるいは手工業によることを教育理念としていました。
バウハウスの魅力や功績はもちろん、名だたる校長をはじめとした教授陣や、彼らそして生徒らの作品でもありますが、バウハウスが取り入れた教育システムもその1つです。そこでは、まず生徒全員が基本的な形態や材料教育を学び、それからそれぞれの教授陣の下で、構成・表現・空間といった理論の習得、そして木・石・金属・ガラス・色彩といった実技の習得の2つの過程の教育システムが取られました。これによって、様々な芸術分野や素材についての抽象的な理論と具体的な実技を横断することで、新しい総合芸術を生み出すことが図られていました。
ワイマールにおいてバウハウスは、バウハウスの前身のアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデによる学校校舎をそのまま利用していました。バウハウスがデッサウへ移転して以降、この校舎はバウハウスとは別の工業デザインや建築大学などとして利用されましたが、1996年に「ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産群」として世界遺産に登録され、現在「バウハウス大学」として再びかつての学生の活気が蘇っています。
ワイマールでは1923年開催のバウハウス展におけるゲオルグ・ムッヘが手掛けた実験住宅も世界遺産登録されていますが、これを機に、グロピウスは「芸術と手工芸」から「芸術と技術」の統合へ考えを発展させたのでした。ワイマールはこうしたバウハウス関連の建物だけでなく、「古典主義の都ワイマール」としてゲーテやシラーゆかりの建物なども世界遺産登録されていますので、そうした様々な歴史が積み重なっている魅力的なワイマールに是非訪れてみてはいかがでしょうか。
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